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日本散歩


水戸偕楽園。

2003年2月1日。梅園で有名な水戸の偕楽園へ行きました。
まだ、花を見るにはまだちょっと早いようです。




入ってすぐに、全体の見取り図と偕楽園の説明があります。

『偕楽園は、水戸第九代藩主徳川斉昭(烈公:1800〜1860)が自ら造園計画の構想をねり創設したもので、特に好文亭については烈公が自らその位置や建築意匠を定めたと言われています。
天保十二年(1841)から造園工事を行い、翌十三年に本園、桜山および丸山が開園されました。
本年には、梅を中心に孟宗竹、霧島つつじ、宮城野萩などが、飛び地になっている桜山と丸山には桜が植えられ、周囲の湖水と田園風景を取り入れ自然との調和を図り、四季の風情や明暗に富んだ趣のある作りで、名公園として名高く日本三公園の一つに数えられています。
偕楽園の名称は、中国の古典である「孟子」の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」と言う一節から取ったものです。
春には百種三千本の梅の花が咲き誇り、全国でも有数の梅の名所として知られています。』





園内には碑があり、ここにも偕楽園の説明があります。

偕楽園記の碑
『偕楽園の由来や造園の趣旨などについて記されています。
碑文は、自然の仕組みを重んじて人は仁義礼智の道をひろげ、常に礼法、音楽、書道などを学ぶことが大切であること、また、この優れた景勝地を選び梅を植え、好文亭、一遊亭の二亭を建てたが、、この公園は自分ひとりのものではなく領内の人々が学問や武芸を学んだ後の余暇を利用して休息し、心身を養うところであることを明らかにしています。』





偕楽園は小高い丘にあり、麓には電車が走っています。






また、暖かい南面には一足先に咲き出した梅の花もありました。




南崖の洞窟
『この洞窟は今から約三三〇年前の第二代藩主光圀時代から第九代藩主斉昭時代にかけて「神先岩」と呼ばれた石を採掘した跡の一つです。洞窟は延長一五〇メートルに及び、この岩は笠原水道の岩樋、好文亭の井戸筒及び吐玉泉の集水暗渠等に使用されました。』





洞窟の中はこんな感じです。
って、何も見えません。




洞窟の近くの碑、『茨城百京 偕楽園』。
そして上に登り、入り口近くの『たいみんちく』。…どんな意味なのでしょう?『タイ民竹』?





   

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