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若宮八幡古墳
◎東松山市石橋字若宮2240-1。 mapfan
南から入る。東の信号のある交差点から石鳥居を入ると車は行き止まり。

最近は、埼玉・群馬 古墳めぐりさんを、色々と見させて頂いています。こんなにも多くの古墳がこんなにも身近に今なおあることに、ただただ驚きです。
”今の自分があるのも過去があればこそ”ということを、今更ながら実感しています。

今日は先ず、東松山市石橋にある、若宮八幡古墳に行きました。
初め交差点の標識に従い、そこの石鳥居から車で入ったところ、行き止まりで民家の庭でUターンさせてもらいました。しかも何度も切り返し、とんでもない目にあいました。石鳥居からの道は、まだ人が歩いていた頃のものです。

若宮八幡神社の鳥居

その交差点を西に進み南から入ると、この赤い鳥居の所に出ます。集会所の所に車を数台停められます。


この道を挟んだ、赤い鳥居と狛犬の向かいに石鳥居からの道があり、その終わりでこの石像が向かえてくれます。
一番左のが宝暦十三年(1763)。その次が天和三年(1683)。今から300年ほど前のものです。

若宮八幡神社の庚申塔


庚申塔 神社の近くなどで この様な石像をよく見かけます。合掌していて、他の手には弓と矢を握っていて、下には、”見ざる・聞かざる・言わざる”がいます。これらは通称何と言って、どの様な意味があるのでしょうか。勉強不足でまだわかりません…。

っと、ネットで調べたら出てきました。これは、庚申塔(こうしんとう) と言うのですね。実に便利な時代です。『最初は文字のみを刻んだ板碑』だったそうなので、右に行くほど古いのかもしれません。次回は右の二つの碑文も読んでこようと思います。

石柱 村社 八幡神社 鳥居をくぐると、奥に墳丘とその上の社殿が見えてきます。 墳丘とその上の社殿


庚申塔 そして、この神社の由緒が書かれた説明看板があります。
文字が多いですが、後世の為にタイプしてみましょう。

…と思って始めたのですが、難解な漢字が多くて変換が大変なので、データ化は後世に譲ります。

さて、では、古墳に登ってみましょう。

階段の途中の左には大きな切り株があります。(タバコの箱でも並べないと、写真だとその大きさがわかりませんね。)
また、参拝をして社殿を回ると、左の軒下に”伊勢参宮参拝記念”と書かれたものを見つけました。昭和十二年とあります。

切り株 伊勢参宮参拝記念

裏に回ると巨大な根っ子が転がっています。
説明看板には、『昭和四十八年十二月十六日』に再建したとあるので、その時に切り倒した木の根っ子でしょうか。

木の根っ子 木の根っ子

そして、下を覗くとこういうのを見つけました!下へ回ってみましょう。

???

神社の説明看板の左を入って行くと、古墳の碑と古墳の説明看板が隠れるようにあります。

木の根っ子 木の根っ子

  若宮八幡古墳
    県指定史跡
    昭和三十九年三月二十七日 県指定
<立地> 若宮八幡古墳の立地する地域は、松山台地の西方、都幾川を望む台地縁辺にある。周辺の台地には、多くの古墳が築造され、それらは幾つかの古墳群に分かれて分布し、下唐子古墳群として把握されています。
<墳丘> 直径三十m、高さ四mの円墳で、墳丘には埴輪が認められています。
<内部主体> 南面に開口する砂岩質泥岩の切石を組み合わせて構築された副室形式をとる大規模な横穴式石室で、全長八・六mを計ります。この横穴式石室の開口は古く、江戸時代中頃に開口されていたと思われます。出土遺物については全く知られていません。
<築造時期> 石室の開口が古く出土遺物が不明なため、時代推定に大きな制約がありますが、横穴式石室の形状や、埴輪等から推定すると、六世紀終末から七世紀初頭頃の築造と推定されます。
  昭和五十九年三月
文化財を大切にしましょう
東松山市教育委員会


石室前はこんな感じです。
石室への入り口には鉄製の柵がしてあり、カギもかけてあります。なので、中には入れません。

石室外部 柵にはカギがある

柵の間にデジカメを突っ込み、フラッシュをたくと中が見えました。柵がしてあるせいか中は荒れていません。吉見百穴も、この位の保護は必要ですね。

石室内部

それにしても藪蚊が多いです。何も防備をしていなかったので、早々に引き上げました。やはり古墳の見学にはシーズンがあるようです…。

散歩した日・・・二千三年六月七日 店主。


 

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