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▽山王古墳群 ◎比企郡嵐山町大字千手堂字山王。 道の東側に何台も停められる所がある。 次は都幾川をさかのぼって、嵐山町にある、山王古墳群を散歩しました。 |
小さい方の説明看板には、山王古墳群のことが書いてあり、大きい方の看板には、鎌倉街道のことが書いてあります。
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嵐山町指定史跡 山王古墳群 指定 昭和六十年十二月一日 所在 嵐山町大字千手堂字山王 時代 古墳時代後期 かつてこの付近一帯には、東原・向原・寺山・原・山王など大規模の古墳群が存在していた。その数も百基以上と推定される。現在では稲荷塚・寺山一号墳を除いては、ここ山王の二十基ばかりを残すのみとなってしまった。 山王古墳群の特色は、径二十メートル未満の小規模な円墳で、扁平な河原石を積み上げて胴張りを呈する石室を構築し、墳丘を葺石で覆うところにあり、近隣の古墳群の中でも独自の形態を示す点で注目されている。 また、その時期は都幾川を遡上して来た古墳文化の終末期にあたり、組織的古墳群の造営がこの地で終わりを遂げているという点でも重要な資料と言える。 昭和六十二年三月 嵐山町教育委員会
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古墳の形態としては、先日行った鹿島古墳群と類似しています。古墳時代も末期になると比較的簡素なものとなり、設営が容易になってきたのでしょう。 看板の所を入ると鎌倉街道の石碑があります。 普通この種の石碑の裏にはお金を出した多くの人の名前があるのですが、そこには、 『昭和三十三年四月吉辰建之 志を同じうする者八十有余名』 とあります。何とも粋ですね。 |
さて、それでは古墳を散歩してみましょう。 石碑の後ろの5号墳。 そして、西へ向かう小道の右側の4号墳。こちらは草が生い茂っていてよく見えません。 |
更に小道を進み、左側の鉄塔手前の6号墳。そこそこ大きな墳丘が残っています。
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が、裏に回ると半分削られています…。石室ではないようですが大き目の石が顔を見せています。また、奥に見える7号墳は、お花畑になっています。これは良しとしましょう。
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小道を挟んだ北側の2号墳。そして、歩いて来た小道。大きな石が二つ転がしてあります。車止めでしょうか。
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せっかくなので鎌倉街道も。 なんとなく窪地になっています。ここを人々が往来したのでしょう。 北方向と、 南方向。 |
なおここはオオムラサキの森として保存されています。理由はさておき、古墳や鎌倉街道などの史跡も一緒に未来へ残されるのはありがたいことです。
(※古墳の号数詳細は、【埼玉・群馬 古墳めぐり】さんのカシミール用古墳GPSデータを参照させて頂きました。) |
散歩した日・・・二千三年六月七日 店主。 |
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